「専門と日常 専門家から観た非専門的な世界」

先日大学時代の恩師内田祥士先生がシンポジウムを行うということで、久しぶりに大学へ行きました。

内田先生は自分たちの代を最後に東洋大学工学部(現在の理工学部)建築学科から新設されたライフデザイン学部人間環境デザイン学科へ移動されたので、母校でのシンポジウムですがキャンパスが違うので新鮮な感じでの参加でした。

まずは、こども環境が専門の仲綾子先生による「建築写真には、何故、人がいないのか」。

写真の歴史から、建築界では王道的な雑誌「新建築」において人が写っている割合の分析、建築写真の目的や建築家、写真家、編集者それぞれの立場での解釈など質疑応答では数多くの話題が飛び交っていました。

個人的には建築写真という意味をもつ写真をどう定義するのかというところに核心があるように思い、どのように建築を見せていくかを考える良い機会になりました。

次に、メカトロニクスが専門の高橋良至先生による「鉄道時刻表は、何故、読み物ではないのか」。

この議題は正直自分には難し過ぎました。。でも辞書や電話帳の様にただの検索するための道具ではなく、時刻表をもとに旅路を想像(創造)することができる希有な存在であることは理解できました。またそういう存在であるが故に推理小説との相性が良い事など、なるほどと感じる事ができました。

最後に、内田祥士先生による「電柱・電線は、何故、埋めたくなるのか」。

街づくりや景観の視点から電柱・電線を地中に埋設した方が良いという議論に対して本当にそうなのかという議論。なぜ見えない様にしたいと思ってしまうのかを丁寧に分析していき電柱・電線の乱立は欲望を表しているが故に本能的にそう思ってしまうのではないかという推察には説得力がありました。その一方で電柱・電線は本当に埋めないとダメなほど美的ではないのかという視点に立ってディテールを解説する内田先生は本当に楽しそうに話し、聴衆を独特な雰囲気に引き込んでいきました。

自分自身が改修物件が多い事や元々改修に興味があり修理しやすいシステムについて建築についても考えることが多く、興味深く楽しい時間になりました。

壮麗とは「美的」ではないが重要な価値を秘め、なんとか持ちこたえている姿という解説はあらゆるところで当てはまることだなとつくづく感じました。

3つの議題はそれぞれエッジが効いていてタモリ倶楽部で取り上げてもらいたいくらいの内容でした。

久しぶりに大学の空気を感じ新たに頑張ろうと思える良い一日になりました。